強固なロジックの無限の反復

2002年8月15日(Thu) 晴

気恥ずかしさ

 友人宅を訪問。
 まあ、例によって埒も無い話をしたんですが、その中に「気恥ずかしさ」というのがありました。
 例えば。
 かわいい女の子の画を描こうとすることに対する気恥ずかしさ。
 別にそのことに後ろめたさを感じる必要などないにもかかわらず感じてしまう、原因不明の気恥ずかしさです。
 一つには年齢のせいだろうという話になりました。28歳にもなって女の子がかわいく描けたかどうかで一喜一憂するというのは、傍から見れば確かに異様な光景ではあります。大人には現実と虚構とを明確に峻別するだけの分別というものが必要なのであり、その限りにおいて2次元の、それも自ら描き起こした女性キャラクターに対して欲情するなどという行為は、ただちにその分別を獲得しえていないということの傍証となりえます。こういった行為は厳に慎むべきであり、その意味で私の感じている「気恥ずかしさ」は健全な感覚ということで正当化されます。
 しかし、どうもそれだけで全部説明できたように思えません。
 気恥ずかしさを感じつつも、私は確かに女の子の画をかわいく描こうという意思をなお持ちつづけているのです。なんということでしょう。これは即ち、大人であれば当然持っていて然るべき現実と虚構とを厳格に峻別するだけの分別を、未だ十分に獲得しえていない、ということではないでしょうか?
 おーまいがっ!

 さて、大人としての分別が「気恥ずかしさ」を感じさせているのではないとすれば、一体この感覚の源泉はどこにあるのでしょう?
 現実の女性に対する遠慮?
 まことに遺憾ながら私は現実の女性と直接的なコミュニケーションを図る機会はほとんどなく、したがって異性に対する遠慮が原因とは考えられません。
 テクニカルな面での不安?
 確かに私のスキルは極めて不十分ですが、しかしテクニカルな面で恥を晒すことにはやぶさかではありません。下手でいーもん、どーせ下手だもん、と開き直っているわけで、これも気恥ずかしさの原因とは云えないでしょう。

 結論から云えば、この気恥ずかしさの原因は私自身のパーソナリティーにある、と云えそうです。
 考えてもみてください。
 典型的なネクラ男が、無邪気な少女を造形するわけです。
 屈折した性格の人間が、一点の翳りもない表情を描き、伸びやかな肢体を描き、はたと我に返って、わが身との絶望的な乖離を見た、その瞬間。

 イッタイナニヤッテンダロ、オレ。

 こんな俺のような人間がこんな画なんか描いてて恥ずかしくないのか?
 そう思ったとしても仕方がないでしょう?(半ば懇願)
 これこそがこの気恥ずかしさの正体なのです!
 だもんで、私は未だに無邪気な表情やポーズを描くのが苦手です。水着姿など論外と云わざるをえません。
 ただ面白いことに、ロリコン画は例外です。ロリコン画はパターンどおりにパーツを組み合わせれば描けてしまうので、考えなくても描けてしまうのです。現実の女性の姿からかけ離れている分、心理的な負担も比較的軽いこともあります。但し、我に返った時の情けなさは増幅されますが。
 とにかく。
 つくづく度し難いこの「気恥ずかしさ」という感覚は、これからもついて回る模様です。屈折したパーソナリティーを矯正するか、「大人としての分別」の獲得に至って画を放棄するか、現実の女性に対して遠慮する必要が生じるような状況に追い込まれない限りは。
 残念なことに、一番現実味があるのは「分別の獲得」、なのですがね。

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