強固なロジックの無限の反復

2003年2月18日(Tue) 晴

物語るラクガキ

 ついでなので前回のテーマをもう少し突き詰めて考えてみることにしましょう。どうせ私に残されているのは思考の言葉だけですから。

 ラクガキは、(こう言うと身も蓋もないのですが)「単なる線の集合」に過ぎません。平面はどこまで行っても平面であり、抽象でしかないのです。しかし、私たちはそれを確かに「人の像」として認識しますし、どんなに線の少ない抽象的な絵柄であっても、それを「キャラクター」という内面をもった存在として認識することが可能です。
 以前「存在論的な願望」で、人間は自己の存在を認識できる唯一の動物であり、それを根拠として他者の存在も認識できる、というようなことを書きましたが、それと同じ根拠で人間は実際には存在しないものをあたかも存在しているかのように認識することも可能です。「想像の産物」と言われているものですね。神や幽霊、妖怪などもそうですが、物語(いわゆる「フィクション」)の登場人物もそこに含まれてきます。この想像力が物語を生み出し、ラクガキをキャラクターたらしめているわけです。
 線の微妙なカーブやその配置によってラクガキには「表情」が生じ、かつある特定の共通性を与えればそこには「同一性」が生じます。表情と同一性を与えられたラクガキは、見る者に対してそこで与えられた以外の状況の可能性を示唆し、物語の登場人物としての性格を帯びてきます。
 つまり、一定レベルの具象性(特定のパターンによる同一性と、その変化による表情)を獲得したラクガキは、既に物語の一部であると言えるでしょう。逆に言えば、画を見る者・そして勿論描く者は、必ずその背後に何らかの物語(或いは「物語の可能性」と呼ぶほうが適切でしょう)を想起している、と考えることができます。
 さあ、またまたアクロバティックな論理展開です。
 そこに物語を想起できなければラクガキはいつまでたってもキャラクターには昇華しません。たとえその場限りであっても、そこに何らかの物語の可能性を見出すことができなければ、ラクガキは「単なる線の集合」でしかないのです。
 つまり。
 私が「ラクガキできない」といってわめいているのは、実は「物語を作れない」というのと同じことなのです。
 ここで言う物語とは、何も始原があって展開があって終局のある、いわゆる「物語」である必要はありません。壮大なスペクタクルであろうが、日常的な点景であろうが、或いはシュールレアルな状況であろうが、それはこの際かまいません。ただそこに描かれたものがそれらの一場面になるであろうと確信できる程度でいいのです。
 ラクガキに最も必要なもの、それはほんのちょっとの想像力なのです(違う言葉で言えば「妄想」。技術?デッサン力?そんなもんほっとけ!)。
 私の場合、早い話がこの想像力が錆び付きつつある、ということですね(やっと結論だ)。
 例えば「こういう女の子ってかわいいよね」とか「こういうオヤジいるでしょ」というような具体的な提示ができなくなってきています。単純に年齢のせいばかりでなく、或いは技術的な限界というレベルの話でもなく、そういう具体的な提示をすることに飽きてしまったということなのでしょうか。この辺がイマイチはっきりしないところではあるのですが。
 とにかく、ラクガキをする上で想像力というのは欠かすことのできないものなのですが、すっかり現実に侵食されてしまった私の脳みそでは、ぼちぼちついていけなくなりつつあるのかもしれません。
 時に現実を超越する快を味わいたい、とも思うのですが、ねえ。

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