一体私はオタクなのかそうでないのか。
奇妙な問いです。
自らオタクだと自認しているのならばこのような問いはそもそもありえません。自らの立場に微妙な齟齬を感じていなければ、このような問いを発することはないでしょう。
一体、オタクであるための条件とは何でしょうか?
大雑把に、「アニメ・ゲームなどある特定の分野の情報に精通し、そこに過大ともいえるエネルギーを払うことをいとわない人々」がオタクだと言えると思います。しかし、この「過大さ」はどう測ることが出来るでしょうか?
例えば即物的に「その分野に投下する金額」で測れば私は「オタクではない」となるでしょう。しかし、「二次創作物を作ったことがある」といういう観点からすれば「オタクである」と規定することも出来ます。
明確な基準があるわけでないので、私のようなどっちつかずの人間も出るわけです。
おそらく私のような「オタク周辺的」な人はそれなりの数が存在するのでしょうが、「オタク周辺的」という概念は「オタク」という概念そのものが曖昧であるためより一層不明瞭なものでしかありません。
この問いに、答えを出せないかと思って1冊の本を買ってきました。
東浩紀著「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」(講談社現代新書)です。
前から気にはなっていたのです。どうもこの人も「オタク周辺的」な人らしい、という意味で。
自他ともに認めるオタクである人が、その意味を問いかける必要はありません。切迫したアイデンティティーの危機がないからです。むしろ、自分が何者なのかという不安が問いを生むはずです。したがって、こうしたオタクを題材とした評論は、オタクの中でも外でもなく、その境界線上にあるオタク周辺的な人間によってしか為しえないはずです。
こういう評論が出現しうるほどにオタク文化は成熟したと見るべきか、それともむしろその退行が明らかになったのか、それはまだわかりませんが。
「オタク周辺的」な人間の一人として、個人的な興味は尽きないところです。
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