今日はちょっと過激なことを書くことになるかもしれません。
果たして、人権というのは無制限に認められていいものなのか否か。例えば人権という概念を持たない人間に、人権は適用されるべきだろうか? 或いは人権という概念に対して真っ向から反対する人間に対して適用することが出来るだろうか?
刑法秩序は犯罪事実と課せられる刑罰との間に均衡関係を与えることが原則ではあるが、では極刑をもってしても犯罪事実の重大さとつりあわない場合はどうなるだろう?
テロをはじめとする、ある概念の内にある者がその概念の外側から撃ち抜かれてしまう悲劇を回避することはできないのか?
例の事件の判決が出たのですが、なんだかとても厭な気分になってこんな文章を書いています。きっと彼は、誰も見ていないところで戦車に押しつぶされて死ぬことにでもなれば初めて自分の死を恐怖するでしょう。
彼は間違いなくテロリストです。マスメディアはそんなことは言いませんが、社会秩序に深刻なダメージを与え、自らの観念をもって社会を震撼させようという行為は、組織的背景があろうがなかろうが、テロリズムと呼ぶほかありません。彼が死を恐怖しないのは、自らの敵である社会が彼の行為に大いに震撼していることを感じているからであり、自分の行為の正しさ(あくまで彼の中での正しさ)を強く確認しているからに他なりません。今彼は殉教者のような誇らしい気持ちすら抱いているかもしれません。
テロリストは過剰に理性的な人間ですから、犯行時に彼の判断能力が喪失していたとは断じて考えられません。彼はそのとき間違いなくそれを正義として執行したつもりなのです。その特異な観念の成立過程を明らかにせずに、犯行事実のみを取り出して断罪するだけでは遺族の皆さんが納得されないのも当然だろうと思うのです。
もう一度、彼を刑法犯としてではなく、テロリストとして裁くことは出来ないものでしょうか?
結果(量刑)は変わらないでしょうが、彼の犯行事実のみでなくその観念をも断罪しなければ、誰も何も納得できないだろうと思います。
少なくとも私は納得できません。
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