新聞の1面にプジョーの写真を見つけたものの、複雑な気分。
先日バグダッドで起きた自爆テロの写真だからです。
最近、自分が乗っているのと同じメーカーの車に対して目ざとくなっているのですが、こういう形で目にするとなんだか悲しくなります。
クルマはただの機械、感情移入の対象にするなんて幼稚だ、と言い聞かせてみるのですが心中穏やかではありません。それは自爆テロという行為のせいでもあるかもしれません。
「自爆テロ」という言葉もすっかり定着してしまいました。自分の思うことを伝えたい、できれば具体化したい、でもできない、というジレンマを極限まで過激化させて、自分の肉体もろとも対象を破壊しようとする行為は、敢えて誤解を恐れずに言えば「表現」なのだと思います。ただ、相手はもとより第三者にも決してそのメッセージが伝わることがないという点で、表現として機能しているとは言えません。その非を伝えようにも実行した本人は既に不在、言いようのない不条理さだけが残される、この地上で最も過激な表現手段でしょう。
そんな過激な行為のパートナーにしばしばクルマが選ばれるのは、果たして爆弾の運搬に都合がいいからという実用上の理由だけでしょうか?
クルマの運転席に一人で身を置いてみると、なんとなくそれだけではないような気がします。
外界と適度に遮断された空間でステアリングを握っていると、実際には移動しているにもかかわらず、自分は静止したまま世界が猛スピードで流れているような錯覚を起こすことがあります。刻一刻と変化する状況を、客観的なものとして受け止めて、自分は主として判断を下すだけ。「これら一切は自分とは関係のないものである」という反道徳的な考えがむくむくと頭をもたげ、それと反比例するように社会性はだんだん後退してしまいます。クルマを運転するという行為は、ある種の幼児的な全能感を思い出させるのかもしれません。ドライバーのモラルがしばしば問題になるのもそのせいでしょう。
自爆テロの手段にしばしばクルマが選ばれるのは実はここに由来するのではないか、というのは考えすぎでしょうか?
自爆テロを企む者は、既にこの世界に見切りをつけてしまっています。自分の意志が残ろうが消え去ろうが、この世界がどうなろうが、自分はその瞬間死を迎えて完結する。クルマはその最後の瞬間において、そんな自己と世界との距離を隔絶する空間を提供しているわけです。
窓を開けて走ろう、と思います。
世界を客体化してしまうのではなく、それを自分の一部として感じるために。
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