ひとつ気がついたことがあります。
他人の幸福を祈ることに決してやぶさかではない私ですが、自分がその立場に立つとか、当事者になるだとか、絶対に考えられないということ。
別に「自分には幸福になる資格などないのだ」などと大袈裟なことを言うつもりは毛頭ありません。昔は確かにそのような考えをもったこともありましたが、さすがにこの歳になるとそんなこと恥ずかしくて言えませんよ(笑)。ただ、自分がその当事者となって主体的に幸福を作り上げようという意志が極めて乏しいということは言えるかもしれません。私が抱くのは常に夢想であって明快な方向性を持ったヴィジョンではないのです。したがって、私は幸福というものに対して当事者意識がないと言うこともできるかもしれません。
「恋愛に不向きな人」である私にとって、この当事者意識の希薄さが最も顕著に表れるのがまず恋愛関係の事象なのです。
自分が恋人に対して甘い言葉を囁くだとか、結婚披露宴に招く友人を誰にするかで頭を悩ますだとか、まして一人の親として振舞うだとか、そういった具体的かつ現実的なイメージを浮かべることはまずありません。なんだか荒涼として殺伐としたイメージしか浮かばないのは決して、これまでそういう経験がないためばかりではないでしょう。まあこれについては今までも散々書いてきましたので、もう十分ですが。
この当事者意識の希薄さはしかし一体何なのでしょうか?
他者と主体的積極的に関わらなければ幸福などありえないのですが、自分から関わらなければならないのなら面倒なのでそんなものはいらない、とでも考えているのでしょうか?
危険な兆候です。
これまで私は個別的具体的な事象に対応するために思考を働かせるよりは、抽象的な思索・思考遊戯のためにもっぱら思考を使ってきたように思います。最近はその方向性に多少は是正が加わったようにも思いますが、基本的には大きく方向転換したわけではありません。それは本欄にも顕著に見てとれるわけですが(笑)。
とにかく、この当事者意識の希薄さは問題です。さっきも書いたように、幸福とは自らが主体的に関わらなければ決して訪れることはないのですから。しかし、やはり自分にそんなことができるとはなかなか思えないのです。
「予言の自己成就」という言葉がありますね。「未来はこうなるのだ」という確信を伴った言葉は、それ自身が原動力となって本当に実現してしまう、というような意味です。これは逆もまた真なり。どうやっても実現できるようにはならないだろうというイメージにとらわれているうちは、決してそれを実現できるようにはなりはしないでしょう。「恋愛している自分」を具体的かつ現実的にイメージできるようになれない限り、私に幸福がやってくるということはないように思われます。
しかし、この期に及んでもそれを具体的にイメージすることのできない私は、紛れもなく「恋愛に不向きな人」なんでしょうね、やっぱり。
かくしてトートロジー(同義反復)は続く。
|