強固なロジックの無限の反復

2004年4月9日(Fri) 晴

奇々怪々

 奇怪な書物である。
 このような書物が、白昼堂々と流通するこの高度消費社会はどこか腑に落ちない。本来このような奇書は本屋において開陳されるべき筋合いのものではなく、ごく僅少部がひっそりと人目を憚るように出版されるからこそ奇書なのである。それがこのように大量流通大量廃棄の現代的なシステムに乗って流布するというのは、この書物の過ちというよりは現代の高度消費社会の歪みの象徴であるように思われる。
 尤も、その奇怪な書物を手にし、やはり奇怪な笑みを浮かべている私とても、高度消費社会に麻痺した凡愚のひとりでしかないのやも知れぬ。

 そんなわけで(すぐ影響される)、押井守著「立喰師列伝」(角川書店刊)を入手。
 とにかく「奇怪」と言うしかありませんね。架空の評伝、という形態もさることながら、取り扱うのが「店の食い物に講釈垂れて銭を払わず」という「立喰師」なる奇怪な人物群。
 長年押井守という作家を追いかけつづけてきた人にとってはこの企画が日の目をみたこと自体が奇跡であり、かつこんなものが商品化されてしまう世の中の不条理を感じ、作家としての押井守の先行きなどという大袈裟なことを考えたりもするでしょうが。
 が、まあそんなことはおいといて。
 この奇怪な書物の一体何を評価すべきか。
 映画監督を本業とする著者が、「架空の評伝」という小説でもエッセイでもない珍妙な形で世に問うたのは、「戦後は本当に終わったのか」というそれこそ時代的な問いかけです。少しばかりこの著者を追いかけた人ならご存知のように、彼は高校生で学生運動に身を投じ、挫折したという経歴を持っています。この奇怪な書物は彼なりのその時代の総括なのかもしれません。
 えらい大時代的であり、時代錯誤には違いないかもしれませんが、さて、では戦後が終わったと宣言された後に生まれた私たちの世代にとって「戦後」とはいかなる時代なのでしょうか(現在形)。まさに「戦後」が産み落としたファーストフード・人工食に対し、海外から再度輸入された概念であるスローフード・自然食へと二極分化を遂げた現代日本の食文化にあって、それを総括することは、実は私たちの今の生活そのものを総括することに他ならないのかもしれません。
 多分にペダンティックであり、多分に装飾過多であり、そして多分に情緒的なこの書物、奇々怪々としか形容ができませんが、冗談のような対象を至極真面目に語ることによって炙り出されるある種の哀しみはなかなか貴重な体験といえます。普通の物語の形式に飽きてしまった人にはちょっと新鮮な体験を与えてくれるやも知れません。
 ただ、例によってあの犬おぢさんの作品ですので、使用上の注意をよく読んで、用法・用量を守って正しくお使いください。

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