強固なロジックの無限の反復

2004年8月9日(Mon) 晴

危険と罪悪の快楽

 クルマの運転がなぜ快楽であるのか。
 それは危険と罪悪を伴うからである。

 最近私はクルマを通勤に使わないので、すっかりサンデードライバーです。
 しかし、実用目的に使わないのに走行距離は順調に伸びつづけているということは、遂にクルマを運転することが趣味になってしまったということでほぼ間違いなさそうです。
 少なくとも私の場合、クルマを運転することは快楽です。
 決してうまい運転とは言えないでしょうけど、刹那的に危険と隣り合わせのスリルを求めるタイプの快楽ではなくて、もう少し微温的な、どちらかと言えばストラテジックな快楽と言えるでしょうか。刻々と変化する状況に対して判断を下し、その判断に基づいて操作を加えて思い描いた挙動を実現させる快楽。ある種の支配欲求と言えるかもしれません。

 しかし、この趣味はなかなかにうしろめたいものです。
 いつ何時自分のクルマを凶器に、自らを殺人者に変えるとも知れない危険。この国では毎年1万人あまりの人が交通事故で亡くなっている事実を考え合わせると、運転という行為そのものの含んでいるリスクは決して無視できません。
 このガソリン価格高騰の折に実用目的以外でアクセルをふんずけまくって二酸化炭素を撒き散らし、地球温暖化に大いに貢献する罪悪感もあります。私がエンジンを4000rpmの最大トルク発揮域で回せば、クルマも加速するけど南の島が海に沈むのも加速させるわけです。
 しかし、リスクを犯すことが快楽を生み、罪悪を重ねることがその快楽を高めるという側面が確かにあるのです。
 実用目的のみで運転をする人は別にそんなこと考えないでしょうけど。
 でも、趣味であるからこそ考えなければならないことであり、それがまた趣味性というか快楽を高めるための重要な儀式でもあると思うのです。
 なんでもそうですけれど、一切の制約がなくなってしまうと意外に面白くないものですよね。制約がいろいろとある中で試行錯誤し、自分の思い描いた形が実現するからこそ面白い。
 だからこそ、危険を十分に認識し、罪悪を自らの身に引き受けることは、より快楽を高めてくれるわけです。

 倒錯的でしょうか?
 ま、趣味性なんてそんなもんだと思いますけどね(笑)。

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