今秋2度目の結婚式参列。
うーん、この歳になると多いのねえ、やっぱし。
今日の二人は「人前式」でした。二人がゆかりのある人たちの前で愛を誓い合うという最近はやりの形式です。どのような形にせよ結婚式での新郎新婦というのはいい顔をしていますね。
…早々に「恋愛脱落宣言」をしてしまった私などが参列してていいのかしらん?
ま、それはそれとして。
「恋愛脱落宣言」についてのフォローを少し。
恋愛ができるできないは才能ではないか、と一時期考えたことがあります。
恋愛は誰にでもできるものではなく、才能のない一部の人間(例えば私のような)にはどう逆立ちしてもできるようにはならないのではないか。一時期本気で考えました。
恋愛が才能だとすると、努力してもしなくても結果は同じだという理屈になります。
この考えは非常に気持ちを楽にしてくれますが、同時に危険でもあるのです。恋愛は確かに努力が必ずしも結果に結びつかないものですが、ひとたび「自分にはその才能がないから」という理由が与えられてしまうと、それに安住して一切の努力を払わなくなります。
これでは恋愛ができないのは本当にその才能がないからなのかそれとも単に努力を怠っているからなのかがわかりません。
「諦める→努力しない→恋愛できない→諦める」という「恋愛回避スパイラル」とでも言うべきルーティンの完成です。
ひとたびこのスパイラルに陥ると抜け出すのは容易なことではありません。何しろ恋愛できないことに対して正当な・妥当性のある理由が与えられているのですから、わざわざ努力を払う理由がないのです。ここから抜け出すためには莫大な労力を必要とします。
恋愛というものから距離を置き続けてきた者にとって、この労力は並大抵ではありません。何しろ「恋する」というのがどのような状態なのかすらよくわからない(思い出せないのではなく!)のですから。
昨年私は人並みに努力を払ってみたつもりなのですが、どうもいまいち「恋する」ということがどういうことなのかをつかめずじまいだったような気がします。私の「脱落宣言」はそうした努力の果てに結局恋愛回避スパイラルに負けたものだと言えるでしょう。
強迫的に恋愛しなければと焦っている状態が健康だとは思えませんが、恋愛回避スパイラルもやはり健康な状態ではないですね。
とりあえず、私の「脱落宣言」は「恋愛しないぞ!」という意思の宣言ではなく、「恋愛できません!」という事実の告白だと思っていただけたら正確だと思うのですが。 いかがなものでしょう?
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