強固なロジックの無限の反復

2003年3月12日(Wed) 晴

素少女

 あまりの快晴に部屋に閉じこもっていられなくなってしまったのに、独りで出掛けるしかない。平日の休みなんて大っ嫌いだー!

 さて、昨日の続き。
 数年前、某友人Tにこう言われたことがあります。
「おまえさんの画ってさあ、”美少女”というよりは”素少女”やね」
 これははっきり言ってショックでした。
 前に私は実感的な絵柄が好みだと書きましたが(*)、この一言を言われるまではそれでも女の子はかわいく描きたいなーと思っていましたし、実際そう描いてきたつもりでした。
 しかし。
 私の画は絵柄として美少女ではない、と某Tは太鼓判を押してくれたわけです。
 これは喜んでいいのか、悲しんでいいのか、当時ずいぶんと困惑したことを思い出します。
 「素少女」(「すしょうじょ」と読みます。なんか酢ばっかり飲んでる女の子みたい)というのは彼の造語なのですが、しかし言い得て妙な言葉です。
 「美少女」という言葉には「見られるもの」としての属性があります。そもそも「美」というのはある対象を見て、それに対して下したイデオロギッシュな評価ですから、「美少女」は見られるためにある、と言っても過言ではありません。特に「絵柄としての美少女」ではそれを描く者のイデオロギッシュな要求が過度に盛り込まれ、時にそれは見る者への「媚」として立ち現れます。別にそのこと自体を云々するつもりはありませんが、少なくとも実感的な絵柄を志向してきた私には相容れないものではありました。
 彼が私の絵柄に対して下した「素」という評価は、そうした「媚」の濃度が薄いということに起因していたのでしょう。ある意味最高の誉め言葉として受け止めるべき言葉なのですが。
 私はこの一言に依怙地になってしまいました。
 で、散々「絵柄としての美少女」を模倣してみたのですが、結局うまくいかなかったのです。そもそも「絵柄なんてパターンだ」などというようなことを堂々と言い切ってしまうようでは、絵柄に込めるべきイデオロギッシュな要求―すなわち好みや思い入れなどがあろうはずもなく、したがって「見る者に媚びる」などという芸当は困難を要します。私の絵柄は結局「美少女」にはなれずじまいでした。
 まあ、結果的にはそれでよかったのかもしれませんが、遂に「単なるパターンの集合」に堕してしまった私の絵柄が、私自身のモチベーションを奪い取ってしまったことは、ある意味仕方のないことなのかもしれません。

 がしかし。それでもなお。

 やっぱり女の子をかわいく描くことを諦めきれない私が、まだ居たりもするのです。
 ああ、つくづく度し難い。

[▼]

目次