更に昨日の続き。
もういいかげんにしろ、という気もしますがとにかく続けます。
昨日の最後の辺りに「具体的な提示をすることに飽きてしまった」と書きました。私が画を描く時に感じてきた「快」とは一体なんだったのか、もう一度考え直す必要があります。
私はこれまで、線を減らして画を簡素にするというベクトルと、一方で見る者に実感のできる画でありたいというある意味相反する二つのベクトルを指向して来ました。
「線を減らしたい」というのは単純に私が面倒くさがりであるせいもありますし、すっきりした画を好む私の審美感に基づくものでもあります。しかし、それで抽象的になりすぎてしまうのもヤだ、というもう一つのベクトルがその行き過ぎに歯止めをかける役目を果たしてきたわけです。すっきりしているけれども「あ、こんな人いるな」と思える画が私の目標であり、またそのような画が描けたときに「快」を感じてきたはずです。
極論すれば、それがかわいい女の子の画であっても、或いは脂ぎったおじさんの画であっても、実感的な画でさえあれば私にとって「快」である、ということです。
蛇足ですが、これは例えば女の子をいかにかわいく描くかということだけに熱心な人には、なかなか理解されない種類の情熱だろうと思います。単に描きたいものの対象の違いということにとどまらず、描くことによって生じる「快」の種類が全く違うのです。私が18禁系の画を描くことがなかったのは、私が恋愛のできない男であり、性的な画に十分な実感を持つことができなかったからなのでしょう。
しかし、大変困ったことに今私はこの「快」を感じることが極めて少なくなってしまいました。
ラクガキしてもなんだか前に描いたことのあるような画しか描けない、無理に描いてみてもイマイチ実感に乏しい、線にも躍動感がなくて生命感が感じられない。なんだかいくら描いてみてもつまらない画しか描けないわけです。
一つには画のパターン化を進めすぎたせいだと考えられます。
ラクガキは昨日も書いたように「単なる線の集合」でしかありませんが、そこにある一定のパターンが与えられると複数の画の間に共通性が生じ、「キャラクターとしての同一性」を確保することになります。いわゆる「キャラクター設定」はこのパターンを作り上げる作業に他なりませんが、ここで適用されるパターンの幅が狭くなってしまうと、似たようなキャラクターばかりが出現することになってしまいます。
私も人のマネをしたりしながら散々色々なパターンを試してきたつもりですが、最近は新しいパターンを試すことがなくなってしまいました。「ま、自分の画はだいたいこんなもんかな」という幅が定まってきたためでしょう。ある意味絵柄が安定したわけで、それそのものは歓迎すべきことなのでしょうが、実際にはそのことがラクガキの「快」をなくしてしまった元凶なのですから、皮肉なものです。
しかも、パターン化を進めたことでせっかく物語へと開かれた絵柄になったはずなのに、私自身がものの考え方までパターン化してしまい、物語を創出する想像力を枯渇させてしまった状態ではどうにもなりません。
結局のところ、自分自身が招き寄せた状況だ、という結論はわかっていたんですが、どうにもやりきれない結論です。
|