なんだか画も文章も射程距離がどんどん短くなりつつあるような。
テレビに映る、異様に解像度の低い映像が、本当にそこからの映像なのか、またそれが一体何を伝えているのか、本当に伝えるに値する映像なのか、とても訝しいのですが、それを検証することはできません。
なんだか変です。戦争とはもっと重大な出来事ではなかったでしょうか?
これではまるでできの悪いバラエティーショーとさして変わりありません。違うのは、現実にそこで人が死んでいるであろうということ。しかし、それを実感させるものはほとんど伝わってこないのです。「○人死亡」という情報はしきりに飛び交っているというのに、それは株価や為替相場の情報のような、ごく抽象的な概念のようにしか感じられません。
これが彼らの目指した戦争の形なのでしょうか?
だとしたら、単純に戦争を敵対概念とした「反戦思想」なんてものは、実はとっくに無力化されているのかもしれません。「戦争」が抽象的な概念のようなものに成り果ててしまったとすれば、「反戦」も抽象的なものにならざるをえません。しかし、戦争が具体的な破壊を伴った概念なのに、「反戦」がどこまで行っても言葉だけの概念でしかないのであれば、「反戦」が「戦争」を覆すなんてことは不可能です。
今もしも有効なメッセージがあるとするなら、それは具体的な体験や感情に基づいた「厭戦」なのかもしれません。
そこでひとつ提案します。
戦争に論理的に反対するのではなく、戦争を感情的に嫌がる、というのはどうでしょうか。あくまで具体的に、感情的に。徹底的に毛嫌いする。
人が死ぬ。ヤだ。
物が破壊される。ヤだ。
居場所を追われる人が出る。ヤだ。
税金が湯水のように使われる。ヤだ。
まるで駄々をこねるようにやだやだと言いつづける。
もちろん、そんなことで戦争が終わるとは思いませんが、少なくとも具体的であることで「戦争」という概念から距離を置くことができるだろう、と思うのです。言葉だけでは、どうやってもそれを覆すことはできないのですから。
|