やり始めると続いてしまうこのシリーズ。
というわけで昨日の続きです。
あなたは、本気で異性を好きになったという記憶があるでしょうか?
私はありません。
即答できます。ずっと一緒にいたいとか、誰も代わりにはならないとか、そんな強い感情を感じた記憶がまったくありません。まったく、というとオーバーかな?
なんとなく好きだ、というのなら何度かあるのですが、いまだに「どこまで行けば本気なのかわからない」と感じているということは、まだ本気で異性を好きになったことがないという証拠でしょう。
人を好きになるには、まず自分のことを好きにならなければならない、と乏しい自分の経験に照らして私は思うのです。
そんなことはない、と思う人もいるでしょうが、少なくとも自分の内面と意識的に向き合ったことのある人ならばある程度頷いてくれると思います。
異性を好きになる理由にはいろいろとあるでしょうが、ひとつには自分の理想像を相手に投影する場合が考えられます。
まったく迷惑な話ですが、相手が自分の思い描いた理想の異性像だ、と思い込んでしまうというわけです。相手そのものではなく、表面に出てくる相手の表情やしぐさ・言葉に、自分の抱いている理想の異性像を重ねてしまうのです。もちろん、現実にその相手と接触するうちにその像は次第に修正され、それでも好意が消滅しなければめでたく恋の成立、とあいなるはずです。
あくまでも恋の出発点は手前勝手な思い込みだ、と私は思うのです。随分屈折した結論ですが。
自分に自信があればこの理想の異性像に違和感を感じることはないはずです。しかしそうでない場合、これは疑問の対象となります。自分は本当に相手のことを好きになっているのだろうか、勝手に自分の理想像を押し付けているのではないだろうか、と不安になります。なにせ好きではないと思っている自分の内側から生じた感情ですから、その感情に対して屈折してしまうのも当然です。
手前勝手な思い込みがたとえ間違っていなかったとしても、それを「勘違い」として切って捨ててしまうメカニズムは、つまり自己嫌悪にあるわけです。
もちろん、「自分のことが嫌いだ」と口で言いつつも実際には自己愛的な人もいますから表面上だけではなかなか判断できません。まあ、徹底的に自分が嫌いだ、なんて人は自殺を試みるでしょうが。
自分の例に戻ってみると、「本気」の手前でいつもブレーキをかけるのがこのメカニズムだったように思うのです。ふっと我に返って「もしかして重大な勘違いをしていないか?」と思った瞬間、もうだめなのです。こんな自分なんかが相手に好意を打ち明けたら、相手に迷惑ではないか?
恋ができない、というのは決して相手が悪いわけではなく、常に自分が悪いのです。
恋をするための条件、そんなものがあるならば、私はまず「自己受容」を挙げたいと思います。
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