強固なロジックの無限の反復

2003年5月3日(Sat) 晴

恋に恋する

 久しぶりに恋について書こうと思います。
 前回(*)恋愛の技術についての本を読んでその感想を述べたわけですが、恋愛を「贅沢品」として切って捨てても何も解決にはなっていない、というようなことを書きました。
 なぜ解決しないのか。いや、何をもって解決とするのか。
 それは、私がなんだかんだ言って結局「恋愛したい」と思っているからに相違ありません。私が恋愛をすれば何事も解決するわけです。

 では、なぜ私は「恋愛したい」と思うのでしょうか?
 「もてない男」(ちくま新書)の著者・小谷野敦氏の言うように、「恋愛教」に洗脳されてしまっているからでしょうか?
 それもある程度は当たっているでしょうが、しかしそれだけではないような気もします。少なくとも私は恋愛至上主義的な考えをとっているつもりはありません。恋をしないからといって死ぬわけでなし、と割り切っている部分が確かにあります。しかし、一方で「恋愛とは優れて実存的な経験であるらしい」(*)ということを、根拠もなく信じていたりします。
 どうもこのあたりが怪しいようです。
 「実存的な経験」と言うとなんだか難しいようですが、要するにそれまでの自分とは違う新しい自分へと変われるかもしれない、という期待のようなものを恋愛に対して持っているらしいのです。
 それは今までの自分の上に積み上げられる(evolute:進化する)ものではなくて、今までに自分を破壊してまったく新しく作り直される(revolute:革命する)ものになるのではないか、という漠然とした期待。今まで過度に複雑化することで自分にもわからなくなっていた自己が、異性という他者によって劇的に破壊され、まったく新しい様相を帯びるのではないか、というある種の破壊的な欲求。
 もちろん、以前にも書いたようにこの種の過度な期待はむしろ今の自分を分裂状況に追い込む原因ともなるのですが、しかし自分の中にどこかそんな期待があるのは間違いありません。
 一方で、これが恋に対して臆病になる原因のひとつでもあります。
 今まで築き上げてきた自分を破壊する勇気が、私には欠けているからです。
 わかりやすく言えば、「これは俺のキャラじゃないから」という一言で逃げている、とでも言えばいいでしょうか。これまで作り上げてきた自己に固執するあまり自分の行動を極度に制約してしまっている、愚かな台詞です。実はそんな自分を最も変えたがっているのは自分自身だというのに!
 結局私の場合、誰か特定の異性を好きになる前に、「恋」という概念に執着し、現実にはその機会を逃しつづけているような気がします。そう、いわば「恋に恋する」ような状態。
 いい歳した男(来年で30)が、情けない話です。

 いくらこのように自己分析したところで、現実の私が女性に対して恋をするわけではないですし、逆に女性から慕われるというようなこともないでしょう。
 私の人生これでいいのか、という疑問が「恋」に執着する理由であり、また同時に恋ができない理由でもあるというのでは、ここから抜け出る道はないように思えます。
 かくして恋愛回避スパイラル(*)は深まる一方です。

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