強固なロジックの無限の反復

2003年9月4日(Thu) 晴

出産祝い

 一昨年来結婚式ラッシュでしたが、結婚式が続くということは一定の期間を経て出産ラッシュも続くというわけで。
 皇国の新たなる担い手として、いや来るべき革命の礎として、立派に育ってしまうことがないように、或いは私のように恋愛ができないなどというごくごくつまらない悩みを抱えてしょーもない観念をしかつめらしくぐだぐだ並べて大いに喜ぶようなことのない、ごくまっとうな人間に育って欲しいと心底願うのですが(大いに語弊あり)。
 しかしそれはまあ、あまり重要ではないのです。
 独身者の私は迂闊でした。
 世の中には出産祝いなるものもあるではないですか。
 そう。
 新たなる社会の構成員を歓迎すると同時に、その功労者である両親をねぎらうことを趣旨とした贈答の慣習。これに異議をさしはさむ余地など、あろうはずがありません。
 …嫌がってないですよ、別に。

 とにかく、大学時代の友人に第二子が誕生したのでそのお祝いをどうしようか、というメールが回ってきまして。こういう慣習に疎い私は大いに助かったわけです。

 前に読んだ本(*)に「贈与は権力関係を示す」みたいなことが書いてあったのを思い出します。贈与には「持てる者が持たざる者へ」行うことで権力関係を明確にする役割があるそうです。昔中国との間にあった朝貢関係というのも、属国が一方的に貢物を上納するわけでなく、帰りに持ってきた以上のものを持ち帰らせて上下関係を示していたそうです。
 じゃあ、出産祝いは?
 この文脈で捉えてしまうと、子供の生まれた家庭は社会的弱者だ、ということになりますね。生まれたばかりの子供のいる家庭は、すでに子供を持った家庭、或いは独身者に比較して確かにいろいろとハンデを負います。出産祝いは当初、その援助を目的としていたのでしょう。近親者や近しい友人という「社会」が、その権力関係を示すための贈与。
 そんな穿った見方はよしなさいって?
 そりゃそうですね。おめでたいことには違いないですから。
 ただ、子供を産み育てるという行為は社会の構成員を再生産するというきわめて困難な過程でしょうから、これからがんばってね、と他人である私は勝手に思っています。

 私?
 親になる以前に相手がいませんし。
 「割れ鍋に綴じ蓋」なんて言葉もあるそうですが、「綴じ蓋」を見つけるに至らない以上は「割れ鍋」以下でしかないんです、私なんて。

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