強固なロジックの無限の反復

2003年3月1日(Sat) 雨

身に過ぎた贅沢品

 しぶとく恋愛の話(*)。できぬと思い定めたからこそ拘るテーマ。

 福田和也著「悪の恋愛術」(講談社現代新書)を読みました。
 この間読んだ「女は男のどこを見ているか」(岩月謙司著・ちくま新書)は女性が求めている理想の男性像を具体的に提示したものでしたが、この本はもっと実際的な技術論、といった感じの本です。私には最も非実用的な種類の本ですね(笑)。何しろ私ときたら恋愛未満の問題で停滞している人間ですから。ま、そんな自分に揺さぶりをかけるには丁度よいでしょう。

 基本的に、恋愛の技術とは物語を構築する(ストーリーを語る)ということとほぼイコールであるようです。自分を主人公として、相手を巻き込んだ物語を、様々な手練手管を用いて演出し、自分とその相手だけを観客にして飽きさせないように語ること。したがって、意識的に恋愛しようとする人は、自ら役者であり脚本家でありプロデューサーであり演出家であると同時に、その観客であり、批評家でなければならないというかなり厄介な状態に自らを置かなければならないようです。
 あくまで「意識的に」恋愛をする場合です。
 はー、なるほど。私はこれまで、好意という感情を意識の俎上に載せることは不可能ではないか、と思っていたのですが、どうやらそれは私の思い過ごしのようです。
 いくつか思い当たる節があります。
 例えば、「好みの(異性の)タイプは?」というごく一般的な質問をされると、私は答えに窮してしまいます。実際、私はどのような異性が好みなのか、自分で十分には把握していません。また把握できない、と思っていました。
 自分の好みの異性がどのようなタイプかを端的に答えるためには、自分が感じた「好意」という感情を意識の上に載せてよく観察し、分析し、それらの中からある一定の類型を抽象しなければならないわけです。私の場合類型化できるほどの事例がないこと以上に、それを意識で捉えることを避けていたわけで、この質問の答えに窮してしまうのも当然です。
 「好みのタイプは?」という質問がほとんど日常会話として成立しているということは、皆さんその抽象化の作業を日常的・意識的に行なっているわけで、その事実にいまさら気づいた私などは、ただのマヌケでしかないわけですが。以上蛇足。

 さて、恋愛という物語を演出するのはなかなかに骨折れる作業のようです。
 何しろ観客は相手と自分しかいないわけですから、相手の水準を慮りつつ自分のイデオロギッシュな欲求を満たし、結果として相手も自分も満足させる、という極めてアクロバティックな演出が必要なようです。当然、相手との差異が大きいほどこの作業は困難を伴うはずです。
 以上全部推定調にならざるをえないのは、結局すべて私が経験していないことだからなのですが、その難しさを想像すると私などは足がすくんでしまいます。「やっぱり恋愛は才能ある一部の者の特権的な行為じゃないか(*)」と思わず罵ってしまいたくなります。罵ってもいいんですが、それで恋愛できない自分にオトシマエをつけられるわけでもありません。
 それに。
 この本では最後に「恋愛は、厄介で愉しい贅沢品」と結んでいます。
 そう、贅沢品。「生活必需品」ではないのです。
 確かに、どのような社会であっても恋愛ができないからと言ってそれが直ちに死に直結することはないですからねえ。せいぜい虚しいぐらいで済んでしまうのなら、敢えて追い求める必要などないのかもしれません。私にとって恋愛とは身に過ぎた贅沢品でしかないのかもしれません。
 ま、それで私が恋愛できないという事実が解消するわけでもないですが。
 とりあえずこのテーマについてはまだまだ書くことになりそうな気配です。

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