強固なロジックの無限の反復

2003年12月10日(Wed) 曇

道徳的根拠

 先日来、あるテーマについて書こうと思いつつも、いまだにそれに踏み切ることのできない臆病な私。

 敢えて一言で言うならば、現場に足を踏み入れることのない者が、死ねよ、殺せよと命じることの道徳的な根拠について。
 私は今のところ判断できずにいます。かの国で起きた悲劇によって皆が感傷的になってしまいがちなこのタイミングで、あの決定がなされなければならなかったのか、私にはもうひとつ確信できません。
 国民の代表が行った発言は、個人的な意志がどうあれわが国の意志と同一視されます。つまりそれは私たちの意志となるわけで、それは私たちの国が民主主義を標榜する以上当然のことなのですが、しかしどうにも受け容れがたいものが残るのはなぜでしょうか。

 例えば、彼らが現地で死の危険に晒されたとき、相手の生命を奪わなければ自らの安全が確保できないような事態に見舞われたとき、私たちの代表は彼らに「相手を殺せ」と直接に命じるでしょうか? わが国の国民の生命を守るためであれば、相手が死ぬのはやむをえない、と果たして容易に言い切れるでしょうか? もしもその命令が出されたとすれば、それは私たちが命令したのと同じことになるのです。あなたは「殺せ」と易々と言えますか?
 もしそう言えば状況はそれまでよりも困難なものになるでしょう。かの国の人々はわが国を敵視するようになるに違いありません。ちょうどあの超大国が今そうであるように。しかし、もしそう言えなければ先日の悲劇が再び繰り返されることになります。

 もっと言えば、私たちの代表はおそらく直接に「殺せ」と命じることはないでしょう。だとすれば、その判断は一体誰が負うのか? 彼らが自ら負うほかにありません。
 もしそうなったとしても殺すのはテロリストであって無辜の民ではない、だからそれは倫理的に許されると考える向きもあるでしょう。それはそれでもっともです。しかしではその区別はどこでできるでしょうか? それに、どちらであっても「人間を殺す」という行為には違いありません。その精神的負担を彼らだけに負わせてしまってよいのでしょうか? そう言ってよいのは自ら進んでその負担を負うことができ、かつ実際に行動できる人だけです。私のように机上の空論をもてあそんでいるような者にそんなことを言う資格はありません。
 繰り返しますが、現場に足を運ばない者が現場の者に対して死ねよ、殺せよと命じることに、道徳的な根拠は果たしてあるのでしょうか? 国家の代表者はその例外だといえるのでしょうか?
 自らの生命と相手の生命を秤にかけるという「究極の選択」を彼らに押し付けておいて、自らは安全な場所に安穏としているこの国の代表者の姿は、実は私たちの姿そのものなのではないか、と思えてきます。

 国家が個人に対して組織的な殺人を命ずること、それを何と言うかは誰もが知っているでしょうから敢えて言いません。もっと恐ろしいのは、その命令が出ずにそのような事態に突入した場合です。安穏としている私たちに現場の判断を批判する資格はありませんが、ではそのような状況を座視してしまってよいのでしょうか。

 なんだかぼんやりしているうちにものすごい世の中に突入しているような気がします。

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