唐突ですが、皆さんは自分の身体についてどのようなイメージをお持ちでしょうか?
どうも過剰に意識的な人間である私にとって、身体というのは遠ざけておきたい、意識に上らないようにしたい、もっと極論すれば滅却してしまいたい、そういうものとして立ち現れることが多いように思います。
別に自殺願望があるわけではありません。ただ、意識的であるということに対して身体というのはしばしばそれを裏切ってくるのです。
わかりやすい例で言えば、性の局面ですね。自己の意識とは別に、身体的に性欲というのは抜きがたい現実として確かに存在します。もちろん、意識によってそれをある程度制御することは可能ですが、これを完全に消し去ることは身体を消し去るのと同じことですから不可能です。
まあぶっちゃけた話、この「制御不可能性」がうざったく感じることが少なからずある、ということです。
話は何も性の局面だけに限りません。肩こりを引きずったり、腹の肉を気にしたり、あるいは薄くなった頭髪を気にかけたり、というのはよくある話ですが、それだって同じことだと思います。あれこれ手を尽くしていくら制御を試みたところで、結局身体を完全に支配下におけるわけではありません。究極的には老化や死から、人は逃れることはできないのですから。
解剖学者の養老孟司氏が「身体は人間に残された最後の自然である」というようなことを言っていたと思いますが、自然を支配下に置くことで発展を遂げてきた人間にとって、身体は当然克服すべき対象なのかもしれません。しかし、これを克服することは(自然をいまだに制御しきれていないのと同じように)ほとんど不可能でしょう。
問題なのは、つまり私たちが自分の身体をどう処遇するか、どうイメージするかなのでしょう。
さて、前フリはここまでにして(前フリだったのか)。
先月末に画を放棄したときに、人物・特に少女を描くことにうんざりしている、と書きました(*)。
この「うんざり」という感覚は一体どこから来ているのでしょうか。その原因を探るために、キャラクター画というものについてちょっと考えてみようと思います。
キャラクター画(以下キャラ画)を描くとき、そこに手本となる現実の身体は存在しません。まあ、モデルとなる人物がいる場合もあるでしょうが、一般的な絵画と違い、ほとんどの場合キャラ画を描いている人はいちいちモデルを見て描いているわけではないのです。
このとき描き手のよりどころとなるのは、先行して存在するキャラ画であり、かつ最も手近にある現実の身体…すなわち自分自身の身体なのです。
ちょっと話がややこしくなりましたので、わかりやすい例を。
キャラ画を描くようになった人の大半は、先行する作品の模倣から入る場合がほとんどです。コミック同人誌の世界を見ればわかりやすいですよね。ある作品のあのキャラが好きだ、というところからスタートして、そのキャラを模倣し、自分なりに絵柄のパターンを解析し、そこに自分のイメージを加味して作られるのがコミック同人誌。仔細に見てみると同じ作品のキャラを描いたはずなのに、作者によっては全く絵柄が違うことも珍しくはありません。もちろん、技能的な差などの影響もあるでしょうし、それも身体的能力の差の現れだという風に見ることもできますが、それだけでは絵柄の違いの説明にはなっていません。
違うのは何か。もうお分かりですね。
そう、加味された「イメージ」です。
人によって作品の受け取り方は千差万別、ある人にとって気に入ったものが他の人にとってはそうではない。その単純な事実ゆえに、同じ作品の模倣から始まったキャラ画であっても作者によって差異が生じるわけです。
このイメージは必ずしも作者によって自覚されているわけではないでしょう。作者の好みが意識的に反映されるのは当然のことなのですが、無意識なものまでがそこに現れてくるのです。それは時にコンプレックスであったりルサンチマンであったりもします。特に理想的な異性像を描くときにこの傾向は顕著になります。
またもやわかりやすい例をあげてみましょうか。他人の例ばかりではいまいち説得力がないですから、私の場合で。
私が好んで描いていたのは、おとなしそうな子で、やせすぎでもグラマーでもなくて、静かに笑っているような子、でした。
ちょっと意地の悪い見方をすれば、これは異性に対する自信のなさの現れだと言えますね。現実の私は男性として女性を魅きつけるような力に乏しい男ですから、あんまり「女」を強く意識させない絵柄を選択せざるを得なかったのでしょう。コンプレックスがこういう形をとらせたわけです。もちろん、逆に自分のセックスアピールに自信がないからこそセックスアピールの強い絵柄を描く人だっているでしょう。自分の身体をモデルとして機能させるということだってあるのですが、それよりは描き手の持っている身体イメージのほうがよほど強力です。
いずれの場合も、ここで重要なのは出発点が「自分の身体」であるという点です。実はキャラ画というのは現実の身体と直接関係がない分だけ、描き手が持っている身体に対する自己イメージ・理想化イメージ、どちらもが忠実に表現されてしまうわけです。そういう意味で言えば、キャラ画はどんな絵柄であれすべて作者の自画像である、とも言えますね。
どうやら少しだけ、「うんざり」の正体に近づいてきたようです。
キャラ画が自画像であるなら、それを描きつづけるということは自画像を量産しつづけるということです。鏡を見つづけるのが苦にならないナルシストなら話は別ですが、のべつ自分の身体を、それも貧相な自分の身体を眺めていたら、そりゃあうんざりします。
また、自分が恋愛に不向きな人であると自覚したこと(*)も大きいでしょう。わざわざ仮象の女の子を作り上げて自らを慰めようとしても、それは単に自己イメージを反映したものにしかならないのです。そう、彼女は「他者」ではないのです。仮象の女の子が平面上からいかに微笑みかけても、それは自分の写し画に過ぎないことに、私は気付いてしまったのです。
もしもこの状況を覆しうるものがあるとすれば、それは自分以外の身体…つまり「他者」しかありえないでしょう。それが異性なのか、それとももっと別な何かなのか、今の段階ではわかりませんし、そもそも画をやめてしまった今となってはあまり意味のないことかもしれません。
ただ、今現在画で行き詰まっている人がいるなら、「自分を見るのをやめるといいかもよ」というのが画をやめてしまった私からできるアドバイスでしょうか。
しかしまあ。
そこまで言った割にはずいぶんと長い間(15年以上!)キャラ画を描きつづけてきたものです。案外ナルシスティックな要素も少なくないのかもしれません、私。
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