強固なロジックの無限の反復

2004年12月22日(Wed) 曇

ベツレヘムに、雪は降ったか。

 クリスマスが近いですね。
 不信心な私ですが、ちょっと思うところあって聖書なんぞをつまみ読みしてみました。
 ちなみに、読んだのは日本聖書協会発行の1955年改訳版で、その昔キリスト教系私学に通っていた友人から譲り受けたもの。

 最後の晩餐からゴルゴダの丘へ至る一連のくだりで、ペテロがとても気になります。
 彼はイエスに「皆がつまづいてもわたしはつまづきません」…つまり、「死んでもついていきまっせ、オヤビン」みたいな泣かせる台詞を言うのです。ところがイエスは、そう言ったペテロが鶏が二回鳴くまでに三度、「イエスのことなんか知らない」と言うだろう、と予言します。
 で、その後イエスは大祭司らの仕組んだ茶番の裁判に引きずり出されて死刑判決を受けるわけですが、散り散りになった弟子の中で、ペテロだけは野次馬に紛れ込んで事の次第を見届けようとします。
 ところが、大祭司の女中に「あんたもあの人の仲間だろう」と言われて慌てて否定するペテロ。
 悲しいよね、これが凡人のサガ。
 自分では決してそうはしない、と本気で思っているのに、いざその場面になると途端に弱腰になって何もできない。
 結局予言どおり、ペテロは「その人のことは知らない」と三度否定し、その瞬間に鶏が二度目の時を告げたのです。彼はそのときになってようやくイエスが言ったことを思い出し、激しく泣いた、といずれの福音書も伝えています。

 このあと、彼はどうしたのだろう?
 「使徒行伝」ではイエスの復活を見届けた後に、他の弟子たちとともに大活躍するペテロの姿が描かれています。イエスと同じようにしるしや奇跡を起こし、大祭司や律法学者を向こうに回して大立ち回り。そこにはもう、イエスの弟子であることを否定しなければならなかった凡人ペテロの面影は見えません。堂々と、自信を持って生きています。
 彼はイエスの死によって初めて「普通の人」から脱却したのかもしれません。そのためにはどうしてもイエスの予言が必要だった。

 でも、でもね。
 大活躍しているペテロよりも、イエスの予言どおりになってしまって号泣しているペテロのほうが人間らしいな、と私は感じました。
 それは私が凡人だからなのかもしれません。
 人は自分で思っているよりもずっと弱いのかもしれないけれど、でも何かを乗り越えた後、それは強さに変わるのかも知れない。勝手な解釈ですが、そんなことを感じました。

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