午前5時。
私はいつものように目を覚ました。
顔を洗い、真新しい朝刊を取る。
コーヒーを飲むための湯を沸かしながら、朝刊に軽く目を通す。
湯が沸いたら、トーストとゆで卵というごく簡単な朝食を一人分だけ用意する。
自分の朝食を用意するのは、ここに家を買ったときから一日も欠かさぬ習慣だ。
朝食を取った後、私は身支度を整える。
妻と二人の子供はまだ寝ている。
私はこれから1時間半かけて通勤しなければならない。妻たちが起きるのは私が家を出た1時間後だ。
起床してからきっかり45分。
私はいつものように家を出た。
駅までは歩いて15分ほどの距離にある。
毎日変りばえのない道を黙々と歩く。
同じように都心に通勤する人々が、同じように駅へと集まってくる。
別段挨拶が交わされるでもなく、皆黙々と下を向いて歩くのが不文律となっている。
いつもどおりの通勤風景。
そう、あのときまでは。
私はいつものように改札に向かった。
背広の内ポケットから定期券を取り出し、機械に入れる。
毎日の習慣だから動作に一切無駄はない。
”ごすっ”
鈍い音がした。
「いててて…」
私は何かしたたかに腰をぶつけてしまった。
同時にけたたましく警報音が鳴り始める。
予想外の出来事に、はじめは何が起きたのかわからなかったが、私は開かなかったゲートにまともに突っ込んでしまったのだ。
人々は白い目で私を一瞥しては通り過ぎていく。
すぐに駅員が飛んできた。
「ああ、この定期券、期限が切れてますよ」
駅員が出した答えは簡潔なものだった。
迂闊にも、私は定期の期限が来ていることに全く気づいていなかった。
「すいません」
とりあえず駅員に頭を下げた。
「困りますよぉ、今度から気をつけてくださいねぇ」
「すいません」
厭味な口調で言う駅員にもう一度頭を下げた。
朝っぱらからこんなことがあると一日調子が狂ってしまいがちだ。
しかし、その日は何もかもが変だった。
いつもより5分ほど遅れて私は会社に着いた。そのまま階段でオフィスに直行する。最近社内の健康診断で脂肪肝の疑いあり、と診断されてからは極力階段を使うようにしている。7階のオフィスに上がるまでに、額にはうっすらと汗が浮かぶ。
フロアで少し息を整え、私はオフィスのドアを開けた。
…何か、雰囲気が違う。
オフィスの中にいた全員が私を怪訝な顔で見ている。
「おはよう」
なんとなく雰囲気に押されて私は控えめに挨拶した。
「あの、ご用の方は受付を通してからお願いいたします」
「は?」
あまりのことに私は思わず間の抜けた声を出してしまう。
「おいおい、冗談はよしてくれよ」
「いえ、あのぅ…」
私の部下の一人が云いにくそうに云う。
「一応、規則ですので…」
私は思わずむっとする。
「おい、上司の顔も忘れたのか!」
しかし、部下は私の顔を見てこういった。
「課長は今日は急用で不在となっておりますが」
一瞬、新手のリストラかと思う。
私はその部下を怒鳴りつけようとして、その後の言葉を失った。
…部下の、名前が出てこない。
他の部下の名前も。
どうしても出てこない。そんなはずはないのだが。
私は口をあんぐりとあけたままそれ以上何も云えなくなってしまった。
結局、私は自分のオフィスから「丁重に」追い返されてしまった。
何がなんだか全く理解できない。
会社にいることも出来ず、私は外に出た。
とりあえず家に電話をしようと携帯電話を探す。
が、ついてないことは重なるものだ。こんなときに限って家に忘れてしまったようだ。 仕方が無いので公衆電話に入ったが、今度は家の電話番号が思い出せない。いつもならこんなことは絶対に無いのに、だ。
あちこち散々探し回って手帳の個人データ欄に書いておいた番号を見つける。
『はい、もしもし』
妻が電話に出た。
「あ、俺だ。」
『…あの、どちらさまですか?』
「だから俺だって。なんか今日は妙な具合でさ、…」
『…ガチャッ』
受話器から不通音が漏れてくる。
私は暫くそのままの姿勢で固まってしまった。
「…一体、どうなってるってんだ?」
そして、このとき私はもう一つのことに気づいた。
妻の名前、そして子供の名前がどうしても思い出せない、ということに。
時計はいつの間にか10時を回っていた。
私は公園のベンチに腰掛けてぼーっとしていた。
あれからいろいろなところに電話をかけまくった。
会社の同期、馴染みの店のママ、学生時代の友人、果ては遠くの親戚まで。手帳にあった電話番号にはことごとく電話を掛けたが、誰一人として私のことをまともに相手にしなかった。
不思議なことに、部下の名前は思い出せなくても、今日の仕事の予定は覚えている。
得意先を数軒回らなければならなかったはずだが、私がいなくて大丈夫だろうか。先方は私が急にすっぽかしたことで腹を立てないだろうか。
が、今の私には何一つ出来ない。
孤独だ。
この世の中で私を覚えていてくれる人は一人もいなくなってしまったのだろうか?こんなことは今まで考えたことも無かった。
このまま元に戻らなかったら、私はどうすればいいのだろう?
私は近くのコンビニで買った缶コーヒーを飲みながら、エサ目当てに集まる鳩を眺めるでもなく眺めていた。
コンビニはいい。私が誰であろうと、お金さえ出せば必要なものを売ってくれる。
なんとなくそんなことを考える。
私が誰であろうと。
鳩が何かに驚いていっせいに飛び立った。
ところで、私は一体誰だったろう?
「あのぅ…」
ふと、若い女性の声がしたので顔を上げた。
いや、女性というよりはまだ女の子、おっと、それはセクハラになるんだったか。
とにかく、OL風のいでたちをした彼女は、私の前に立って私のことを見ている。 すらりとしたシルエット。肩にかかる長い髪と、あどけなさの残る幼い顔立ち。綺麗、というよりはかわいい、といった感じだろうか。
「なにか?」
私が訊き返すと、彼女はなにやら云いにくそうにしている。
「えっと、…今、お困りじゃありませんか?」
なんだかよくわからない質問だ。普通見ず知らずの人にこんな質問はしない。
しかし私が困っているのも事実だ。
「え、ええ」
困惑しながら私がそう返すと、彼女はいきなり勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい、それ、私のせいなんですっ」
彼女は私と並んでベンチに座っている。
はたから見たら怪しい関係に見えるかもしれない。それもあって私はどうもさっきから落ち着かない。
「えっと、おわかりいただけましたでしょうか?」
彼女は不安げな顔で訊いてくる。
「いや、何とも…」
私はそう答えるしかなかった。
彼女の話はこうだった。
彼女は「知能局存在部存在同定課第2896係」に所属する新任の天使で、私を含む数千人のアイデンティティーを司っていると云う。天使といえば恋を司る「キューピッド」が有名だが、実は男女の縁結びというのはこの存在同定課の仕事の一部に過ぎないそうだ。彼女達は私たちの人間関係一切を取り仕切っている。
「で、それが私とどう関係するんです?」
「実は、私、先日仕事で失敗したんです。」
「失敗?」
「はい。あなたのことは異動になった先輩から引き継いで受け持ちになったんですけど、そのとき空白が出来ちゃって…」
今の状態は、私と直接の人間関係のある人が私を私として認識できない、ということらしい。
「あ、もちろん空白はすぐ終わります。半日だけですから。」
彼女は取り繕うように明るくそう云った。
が、かえって気まずくなってしまった。
彼女が焦っているのがわかる。
「えと、出来るだけ支障が出ないようにしてますんで…」
彼女によると、会社のほうは今日は急病で休み、と彼女が連絡したらしい。
「しかし、若い女の子から電話があったとなると、明日厄介だな…」
「だいじょぶですよ、あなたの声で電話しましたから」
後半は確かに私の声だ。目の前で自分の声でしゃべられると気色が悪い。
しかし、彼女が私の人間関係の一切を取り仕切っているなどという話は、どう考えてもうそくさい。
「君ね、…」
私は彼女に云った。
「大人をからかうもんじゃないよ」
「からかってなんていません!」
彼女はムキになって反論する。が、すぐに目をそらして下を向いてしまった。
「あ…、すいません、私が悪いのに…」
まずい。
はたから見たら絶対に怪しい関係に見えるじゃないか。
何とかしなければ…。
「…君が天使だっていう証拠って、無いのかな?」
「職員証ならありますよ」
「いや、そういうのじゃなくって、なんていうのかなぁ、人間とは違うっていう証拠」
彼女はちょっと考えていたようだったが、すっと立ち上がってこう云った。
「じゃ、それを見せたら私の話を信用してくれますか?」
「ああ。信用しよう」
彼女はすっと数歩前に出た。
「見ててくださいよー」
彼女は私にいたずらっぽく微笑みかけると、その場でくるりと1回転して見せた。
「…!」
私は息を呑んだ。
一瞬にして彼女の背中から、白く大きな翼が出現した。ふわり、と羽が1枚抜け落ちて唖然としている私の膝に乗る。
「どうです?」
彼女が微笑みながら云う。翼の作る影が私の顔を覆った。
「驚いた」
私はそれだけ云うのが精一杯だった。
「これで私の話、信用していただけますよね?」
「ああ、信用しよう」
「…それにしても、天使って本当にいるんだなぁ」
彼女は翼をしまって私の隣に座っている。
「普段は誰にも見えないんです。今も、私の姿が見えているのはあなただけですよ」
「ふぅん…。ところで、天使ってみんなそんな格好なのかい?」
「あ…、これですか?」
彼女はどこかのOL風の自分の制服を眺めた。
「いえ、こうやって人の前に姿を現すときは、その人の生活環境に近い格好をするように、って服務規定で決まってるんです。私たちって本当は性別も無いから、何にでもなれるんですけど」
「んじゃ、男の姿にもなれるってことか」
「男のほうがよかったです?」
彼女はくすくすと笑う。笑顔が実に綺麗だ。
「いや、こっちでよかった」
私も思わず笑いを返した。
「仕事って云ったよね?」
「はい?」
「仕事。君の仕事だよ」
私は彼女のほうを向いて云った。
「今日は仕事はどうしたんだい?」
彼女はちょっと黙っていた。
少し表情が曇ったような気がする。
「今日は、お休み、なんです」
声が沈んでいた。
「仕事で失敗したって、云いましたよね?」
彼女はそう続けた。
「ああ。確か、引継ぎに失敗したとか…」
「それで、私上司に叱られちゃったんです。責任感が足りない、存在を一時的に消される人の身になってみろって怒鳴られちゃって…」
「…」
「ちょっと頭冷やして来るようにって…」
「それで、今ここにいるってわけか」
彼女は小さく頷いた。
「天使でも、その辺は同じなんだな」
私は空を仰いで云った。
雲がゆっくりと流れていく。
「人には絶対に迷惑を掛けないってのが仕事の基本だからな」
彼女はじっと黙ったまま下を向いている。
私はわざと調子を変えて続けた。
「でも、ま、いいさ」
彼女がびっくりしてこちらを見る。
「休みが一日、降ってわいたと思えばいいんだ」
そう云って私は彼女にウインクを送った。
彼女は、泣きそうな顔で無理やり笑ったようだった。
日がだいぶ傾いてきた。
あれから私は彼女を連れてこの街を歩き回った。
どうせ彼女の姿は他の誰にも見えていない。誰の目をはばかることも無い。
いつもの街なのに、彼女と一緒だといつもは見えなかったものが見えた。
いや、普段は気に留めていなかっただけなのだろう。
街路樹の脇に生えていたタンポポや、ビルの裏手に巣づくりするツバメなど、この街は人ばかりが生活しているわけではなかった。
虫には虫の、鳥には鳥の担当の天使がいるんですよ、と彼女は云った。私たちは生きるお手伝いをしているだけなんです、と。
私たちは、たくさんの生き物と、たくさんの目に見えないものに囲まれている。
「あと15分で元に戻ります」
彼女が時計を見て云った。
「元に戻ったらどうします?」
「そうだな…、まっすぐ家に帰るか」
「奥さん、きっと待ってますよ」
「ああ、そしたら今日のことを話してやろう」
彼女は私の目をじっと覗き込む。
「それは、出来ません」
冷静に彼女は告げた。
「えっ…」
「残念ですが、元に戻ったら私に会ったことは忘れてしまいます」
…そんな。
今日のことを忘れてしまうのはとても惜しいような気がした。
もちろん、彼女のことを忘れてしまうのも。
「規則なんです。天使の存在は、やっぱり不可視でないといけないんです」
「しかし、…」
私は何か云おうとしたが、言葉にはならなかった。
「あの、ありがとうございました」
彼女は不意に私に向かって頭を下げた。
「私、落ち込んでたんです。私にはやっぱり天使なんて出来ないって」
「…」
「でも、もうちょっと頑張ってみます」
そう云った彼女の目は、自信に満ちていた。
私は少しほっとした。
「そうか。じゃ、頑張って」
私は右手を差し出した。
「はい」
彼女は、しっかりと私の右手を握り返した。
「あなたが忘れても、私は今日のことを忘れませんから」
私は頷いた。
時間が来た。
「あ、そうそう。定期券、買い忘れないでくださいね」
彼女は最後にそう云った。
それから、彼女の姿はふっと空気に溶けるように消えてしまった。
そして。
翌朝。
午前5時。
私はいつものように目を覚ました。
顔を洗い、真新しい朝刊を取る。
コーヒーを飲むための湯を沸かしながら、朝刊に軽く目を通す。
湯が沸いたら、トーストとゆで卵というごく簡単な朝食を一人分だけ用意する。
自分の朝食を用意するのは、ここに家を買ったときから一日も欠かさぬ習慣だ。
朝食を取った後、私は身支度を整える。
妻と二人の子供はまだ寝ている。
私はこれから1時間半かけて通勤しなければならない。妻たちが起きるのは私が家を出た1時間後だ。
起床してからきっかり45分。
私はいつものように家を出た。
毎日変りばえのない風景だと思っていた風景が、なぜか今日は妙に鮮やかに見える。
私は一つ深呼吸をしてから、昨日買ったばかりの定期券を通して改札を抜けた。
電車がもう来ているらしい、ホームのほうからチャイムが聞こえる。
私は階段を1段飛ばしで駆け上がった。
途中、上から降りてきたOL姿の女性とすれ違った。
(ん?)
私はちょっと立ち止まって振り返った。
(今の人、どこかで会ったことのあるような…)
しかし、振り返った私の視線の先に、女性はいなかった。
(気のせい、か)
そう思い直すと、私はまた、階段を駆け上がったのだった。
終
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