「しあわせ」の射程距離


情報化/消費化社会のシステムの原理からして不可避のように見えるこれらの不幸と限界(中略)を、どのような仕方でのりこえることができるだろうか。

  見田宗介「現代社会の理論」より


 しあわせになりたい。
 自分は勿論のこと、自分の周りにいる人たちも、みんなしあわせであればいいのに。

 そう願わない人は少ないはずだ。
 しかし、実際にはみんながしあわせになるということはできない。
 どこかにしわ寄せをしたり、誰かが我慢したりしなければ、誰かのしあわせは成り立たない。
 「最終兵器彼女」を読むと、いやでもこのことを考えざるを得ない。

 一人の人の「しあわせ」の有効射程はどのくらいだろう?

 なんとなくそんなことを考えてみた。一人の人が、周りの人をしあわせにできる範囲。

 自分を中心にして、人間関係の同心円を考えてみる。
 まず半径5m。家族の範囲。なんとかなりそうだ。
 半径10m。教室とか、職場の範囲。少し難しくはなるが、出来ないことはなさそうだ。
 では、半径100m。隣近所とか、自治会とか、そういう関係の範囲。挨拶を交わす程度の人、何をしているのかよく知らない人もいる。できるだろうか?
 半径1km。町とか区とか、行政的な範囲になる。人数は4桁を超える。全然会ったこともない人がいる。政治家にでもなってみるか?
 半径100km。地方の単位。人を数でしか測れなくなる。
 半径1000km。国の単位。実感できない「億」という数字を信じるしかなくなる。
 そして、半径1万km。この星の範囲。人がいる、と信じなければ何も見えなくなる。

 どうだろう?何とかなりそうなのはせいぜい半径10mまでではないだろうか?
 「しあわせ」だけならこれで話は終わる。
 では、冒頭に挙げた「しわ寄せ」の及ぶ範囲はどうだろう?

 例えば、自分の家(半径5mの世界)をきれいに保つためにはゴミを捨てなければならない。
 ゴミを捨てるには自治会のルール(半径100mの世界)がある。
 捨てたゴミは自治体(半径1kmの世界)が集め、処分する。
 しかし、捨てたゴミの一部は正規のルートを外れ、不法投棄されるかもしれない。不法投棄されたゴミは自治体の枠を越え、問題になる(半径100kmの世界)。
 そのゴミが有害で公害を発生したとすれば、国の問題(半径1000kmの世界)、或いは地球規模の問題(半径1万kmの世界)でもある。

 今のはあくまで単純な例え話だ。
 ただ、「半径5mの世界」は「半径1万kmの世界」と決して無関係ではないということだ。
 「しあわせ」のほうは全然広がっていかないのに、「しわ寄せ」のほうは際限なく広がっていく。

 「最終兵器彼女」では、この「しわ寄せ」をもっと象徴的な「戦争」という形で表現している。

なんにもしてねーことが、どっか知らねー所で「殺してる」ことだってあるんじゃねーのか!?
「最終兵器彼女」第4巻p.162より

 誰にも迷惑をかけていないつもりでも、「この国に生きている」ということそのものが「大迷惑」になっているということは、確かにある(例えば食糧問題など)。
 しかし、それを悪いことだと決め付けることは出来ない。それを否定したら、私たちは「半径5mのしあわせ」すら守ることが出来ないのだから。
 だから、「何が正しいか」なんてことは、アツシやシュウジの言うように、誰にも答えられはしない。

 どうも私たちは簡単に答えを求めてしまいがちだが、答えの出ない問いを喉元に引っかけて生きるってのも、なかなかカッコいいんじゃないか。
 この作品を読んでそんな風に思った。


参考文献:
   見田宗介「現代社会の理論」(岩波新書刊)

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