以前、「カワハラさん」についてごく短いエッセイを書いた。
彼こそ「最終兵器彼女」という作品の中で最も「戦争」の匂いをさせるキャラクターである、と。
そう、彼は常に良心的で、生真面目で、しかし個性の無い、システマティックな戦争の顔をしている。もしも現代のこの世界に「悪魔」がいるとするなら、それはきっとこんな姿で現れるのだろうと思う。その悪魔ですら、彼の"悪"の猛毒に恐れをなすかもしれない。
「カワハラさん」は間違いなく「現実」を生きてきたキャラクターだ。
彼が作中で具体的に何をしたかは一切語られていないし、描写もされていない。私たちに許されるのはただそれを想像することだけだ。多分、ちせを兵器にした人々にかなり近いところにいて、それを積極的に支援してきたのだろう、ということしか云えない。
ただ、彼は目の前の現実に対し自分から関わるという選択をしてきた、と想像することが出来る。為す術もなくそれまでの現実を大きく踏み越えた「戦争」という事態に巻き込まれ、否応なくそれと関わっていくことになったなら、彼にとって目の前の現実とは、現に進行している「戦争」に他ならない。そしてそれと渡り合うということはイコール「戦争(殺戮)」に荷担する、ということである。
しかし、彼の選択は最良の結果をもたらしはしなかった。
彼が向き合ってきた現実に対しても、彼自身に対しても、そしてもしかしたら彼の家族に対しても。
だが、彼自身は自分がいったい何をしたのか、そしてそれがいかに残酷なことか、「本当は」よく知っている。彼は単に、「それが何をもたらすか、知っていながらそれを手助けしていた」、ただそれだけのことである。
しかし、結果を知った上で敢えて犯された罪は、知らずに犯した罪よりも重い。
――人が創るすべての技術は、人を生かすか、人を殺すか、どちらかのためにのみ生み出されます。
「最終兵器彼女」第5巻p.199より
この言葉は、字面だけ見れば科学技術についての一般論として語られているようにも見える。しかし、これは「カワハラさん」の心中の吐露である、と私には思えた。
「本当は気付いていた。目をつぶっていた。」と彼はシュウジに語りかける。それは、「ちせの彼女」を演じてきたシュウジに対して「カワハラさん」が感じたシンパシーのようなものではなかったか。"看過"という同じ罪を犯してきた者としての、同情の念ではなかったか。
だから、彼は「しかたなかったんです」と繰り返す。
現実(=戦争)と渡り合うためにちっぽけな倫理観を捨て、目の前の現実にひたすら追従し、それが何をもたらすか、いかに残酷なことかといったことから目を逸らし続けてきたという、その事実に対して。
「知っていながら止めなかった」という事実に対して。
しかし、その罪を認めることは、目の前の現実を、そしてそれと渡り合ってきた彼自身を否定することになる。だから、彼は(それが単なるエクスキューズに過ぎないと知りつつも)「しかたなかったんです」と繰り返す。
彼は決して「悪い人」ではない。むしろ、ちせの延命のためにシュウジに薬を渡したりする、良心的な人と云ってもよいだろう。
しかし、この作品で最も本質的な悪に近いところにいるのは間違いなく「カワハラさん」である。
なぜなら、彼は自覚的に悪を行い、積極的に殺戮を助長した者であるから。
彼自身は誰一人として殺していなくとも、ちせを通じて何百万・何千万人もの人間が彼に殺されたはずだ。だから彼の姿には「人殺しの匂い」のようなものが漂っているように感じられる。
この「人殺しの匂い」は、しかし私たちの手からも匂ってはこないだろうか? 私たちは私たちの生活が多くの犠牲によって成り立っていることを知っている。そして、そのことを「知っていながら」、便利さに負けて今の生活を「止めないでいる」。 これは「カワハラさん」と同じ罪ではないだろうか?
シュウジは「カワハラさん」とのやり取りの最後に、「しかたなくなんかない!」(5巻P.202)と二度繰り返す。
同じように"看過"の罪を犯したとして、果てしなく現実に追従しつづける「カワハラさん」と、(殆んど紙一重の差で)その現実に対して異議申し立てをするシュウジ。
この違いは確かに僅かなものだが、しかし厳然とした差である。
果たして、あなたはどちらだろうか?
参考文献:
今村仁司「群集―モンスターの誕生」(ちくま新書刊)
辺見庸「背理の痛み」(角川文庫刊「眼の探索」より)
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