「最終兵器彼女」という作品の中で、”戦争の臭い”を最も濃く漂わせているキャラクターは誰か、と問われれば、私は迷わずちせのお世話係・「カワハラさん」を挙げる。
誠実そうで、優しそうな中年のおじさん。
いつもハンカチで汗を拭きつつ、ちせにどう言葉を掛けようか戸惑っている、あのおじさん。
あのおじさんこそが「戦争」そのものだ、というように思う。
「戦争」は一部の悪意の人が起こす、とは限らない。
むしろ、「いいひと」によって激しくなる、と思う。
自分の愛しい人を守るために、自分の目の前にいる人を殺す。
自分の愛しい人を守るために、自分の持つ知識や技術を(人殺しのために)使う。
どちらの罪がより重いか、ということは云えない。
直接手を下す者は、たとえその行為自体に麻痺したとしても、自分の行為の意味を考えざるを得ないだろう。
しかし、間接に「戦争」に携わる者は、果たして自分の行為にどこまで疑問を抱けるだろう?
頭の中で「自分の行為は大量殺戮を助長するものだ」と判っていても、その行為自体を止めるには至らないだろう。(少なくとも)自分の目の前で”敵”が血を吐いて倒れるわけではないからだ。
それよりは、いつも共に仕事をしている人達(上司や同僚)との関係を悪化させてはいけない、と自らの仕事に打ち込むかもしれない。
サラリーマン社会では当たり前の光景。
そんな光景の果てで、「戦争」はさらに激烈になるのではないか?
「最終兵器彼女」を読んで、そんな事を思う。
「戦争」に限らず、目の前の人たちとの幸せを守るために、どこか遠くにいる誰か・目には見えないが確実にいる誰かを殺している、そんな世界に私達は生きている。
一度でもそんなことに思いを馳せたことのある人にとって、この作品はきっと痛い。
参考文献:辺見庸「核軍縮と哲学の貧困」(講談社文庫刊「反逆する風景」より)
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