強固なロジックの無限の反復

2002年11月26日(Tue) 曇

男であること

 最近はやりの自分探しではありませんが、ここのところ「男であること」についての本をよく読んでいます。今は諸富祥彦著「さみしい男」(ちくま新書)という本。
 それに関連して、今日は以前書いた「恋愛脱落宣言」のフォローと、「最終兵器彼女をめぐって」に書いた「たった一つのかけがえのない出会い」の追補にあたるようなことを書いてみようと思います。

 自分が生物学的に男であるという事実は生まれ落ちた瞬間に決められたもので、これはどう逆立ちしても受け入れざるを得ないのですが、社会的に男であるためにはいろいろと困難を伴う時代になりました。恋愛にせよ、結婚生活にせよ、仕事にせよ。
 できれば自分が「男」であることから早いとこドロップアウトしてしまいたい、という願望が私にはずいぶん昔(多分小学生の頃)からありまして、実はその願望は今でも根強く残っています。
 男であるためには異性である女性に対してまっとうにコミュニケーションすることが必要ですし、仕事に代表される社会的な責任やら、家族の扶養義務やらといったややこしく面倒なことも背負って立たなければなりません。勿論、そういった面倒なことを自ら背負って立つことができるぐらいの実力と気概の持ち主であれば、男としてやっていくにやぶさかではないでしょう。ただ、私のような「面倒なことは面倒だ」としか思えない度量の小さい男にとっては大変な重圧です。
 で、「そんな面倒なことには関わらずにできるだけ楽に生きたいなあ」などと不遜なことを考えた結果、「男」であるよりも「ただの人」のほうがよほどいいだろう、と考えるに至ったわけです。男であることの困難に対する消極的な対処法ですね。
 結果、確かにその試みはほぼ成功したといっていいでしょう。
 恋愛を回避し、仕事はそこそこ、いてもいなくてもさして変わらない、「ただの人」。
 「恋愛脱落宣言」の背景にはどうもそういうところがありそうです。
 ちょっと古い考えかもしれませんが、恋愛している人は相手に対して絶対的な交換不可能性を感じると言います。自分にとっては彼女(彼)しかいない、他の誰も代わりにはならない、という感情が恋愛の定義にあたる部分でしょう。
 しかし、自分自身を「交換可能なただの人」と規定してしまっている場合はどうでしょう?
 自分の代わりになる人間はほかにいくらでもいる。ということは自分にとってどうしても彼女(彼)でなければならない理由は無いのではないか?彼女(彼)にだって、自分でなくても代わりはいくらでもいるはず…。
 私が恋をできない理由は、つまり自分を「交換可能なただの人」だと考えているからではないか?と最近は思います。
 女性にそういう人が少ないのは、少なくとも女性の場合自分の価値を自分自身で認めている人が多いからのように思います。男の場合、社会に対しても、異性に対しても、家族に対しても、そして自分自身に対しても出血大サービスの大安売りをしている気がしてなりません。「本当は俺の価値はこんなもんじゃないんだ…」とかなんとかぼやきながら。

 今日読んだ本では、「男よ、自信を持て」というメッセージが繰り返されていました。
 自分の大安売りをやめろ、ってことですよね。
 はてさて、このデフレ時代、自分自身を標準価格に持っていくことができるかどうか。
 自分も含め、男が試されるのはこれからのようですね。

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