昨日の続き。
まだ公開されてもない映画を肴にして語るなって?
まあいいじゃないですか、まだ誰も見たことがないのならみんな平等に想像する権利があるわけですから。
さて。
十分な恋愛経験のない私にとっては、「愛」という観念ははっきり言って何億光年も彼方のことのように思えてならないのですが、世間では物語や詩などに好んでこの題をとります。一般には「愛」とは肉体的な一体感を超えて成立する精神的な一体感であり、自己の身体の処遇を一切問題としない感情である、とされています。要するに、その人のためならば掛け値なしにこの身を捨ててもいい、と思えるような感情が「愛」というわけです。ああめんどくさ。
「最終兵器彼女批判試論」にもちょっと書きましたが、このとき身体はすっぽり置き去りにされていると言ってもいいでしょう。勿論、男女の「愛」の成立過程において身体は欠かすことのできない役割を果たすはず(言わんとすることわかりますね?)ですが、それは化学反応を劇的に促しはするけれどもそれ自体は変化せず反応前も反応後も見た目上の変化がない、いわば触媒のようなものであるようです(あくまで推定調)。
さて、ここからが本題です。
身体が「愛」という観念の触媒として機能するものであり、また同時にそれ以上の機能を果たしていないのならば、もしも「攻殻機動隊」の世界観のように身体のほとんどの部分が機械によって置き換え可能になった場合、機械というインターフェースによって(=身体を介在させないでも)「愛」は成立し得るものなのでしょうか。
そう、「イノセンス GHOST IN THE SHELL」は多分に「最終兵器彼女」のテーマとダブってくるのです。
「最終兵器彼女」で描かれた「純愛」は、ちせの身体性が欠落していくことによって励起された観念の物語でした。
サイボーグという機械の身体も、やはり人間本来の身体からは大きく外れたものといえるでしょう。だとしたら、生殖の可能性を断ち切られた身体に生じる「愛」の観念も、やはり同じようなものになるのではないでしょうか。
このあたりの問題を、あの押井守がどのように脚本化し、映像として見せてくれるのか。
とまあ、たかだか1行のあおりの文句でいろいろと邪推してみたわけですが、私の脳内では勝手に「イノセンス」=「押井版サイカノ」に決定です(笑)。
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