ふと浮かんだ疑問。
恋愛に不向きな人がその事実を受け容れるとして、ではそれ以外の一体何を頼りに永い人生を生きてゆけばよいのだろうか。
考えを整理する云々(*)の前に、これはなかなかの問題です。
人は何かに頼らなければ生きていけないのはおそらく間違いないのでしょう。大多数の人々はその相手を配偶者とその間に生まれた子に求めているようですが、では配偶者を得られない人・或いは自ら得ようとしない人、更には配偶者は不要だと自ら決めた人たちにとっては「配偶者」以外の何かに頼って生きることを強いられることになりますね、論理的には。
それらの人たち(もちろん私も含まれます)は一体何をよすがに生きていけばいいのでしょうか?
前にも書きましたが(*)、お金や仕事では十分にその役目を果たしてくれません。お金や仕事は私たちの情緒の問題はなかなか解決してくれないからです。こと情緒の問題に関しては、異性によって解決するのが最も早道であり、同時にそれがまた新たな問題を生み出したりもしますが、まあそれはまた別の話で。
別にいまさら押井のおぢさんに感化されたわけではありませんが(*)、結局私たちは隣に誰かがいないとさびしくて生きていけないような気がします。無人島に一人流されたロビンソン・クルーソーだって、本当の意味での孤独じゃなかったんですから。
私たちの人生が一本の物語であるとするならば、本当に一人きりでいたのではドラマはいつまでたっても始まらないでしょう。どこかで誰かと情緒を通わせていなければ、その物語はただの一度も盛り上がることなしに結末を迎えてしまうのではないでしょうか。
ただ、その「隣にいる誰か」が必ずしも異性でなくてもいいのかもしれないなあ、ということを最近は考え始めています。
…いや、だからと言って別にホモセクシャルになるというわけじゃないですよ(汗)。性の局面ではなくて、あくまで情緒のおはなし。
結婚という制度が何か解決してくれるというのは単なる幻想でしょう。情緒の問題を解決できるのは、その問題に真摯に向き合って解決しようとする当事者の姿勢そのものでしょうから。結婚するとか誰かと付き合うとかいうことそのものに解決の力があるのではなく、その相手とよりよくあろうとする(自らの)姿勢にこそ意味があると言いますか。だとしたら、その相手は別に人間でなくて犬や猫であったとしてもいいかもしれません。
ちとロマンティックすぎやしないか?
まあ確かにそうですね。少なくともこの歳になっても「彼女いない歴」に終止符を打てない男の言う台詞じゃありません。
でも、逆にこの歳まで独りだからこそこういう事を考えるんですよ。
ちょっと前はこんな命題に切迫性を感じることはありませんでしたし、もし私にステディな異性がいたとすればこのような命題はそもそも思考の対象ですらないでしょう。
結局今回も結論には至りません。
ただはっきりしているのは、隣に誰もいない人生なんてつまらないものだ、ということ。
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