大雑把な話をします。
私たちは普段から日常的に外見(見た目)である程度その人の内面性を判断する習慣を身につけています。「大切なのは中身だ」と口では言いながらも、内面は外面にある程度反映されているのは、誰もが経験的に知っています。もちろん、例外は常にあるわけですが、しかしいずれにしても見た目というのは相手との人間関係を構築する上でかなり重要な手がかりであることは間違いないでしょう。
逆に言えば、当たり前のようですが私たちが普段生活していく上で、顔をはじめとする見た目の情報をさらけ出しているという状態はなかなかすごいことだとも考えることができますね。そうしようという意図があるかないかは別にして、私たちは常に「見た目」という自己表現をしながら生きているわけです。
ところで、だいぶ前に着ぐるみを着たときの話(*)を書きました。
「着ぐるみを着る」という特殊な行為は、相手に対して外見上の情報を著しく制限するものです。中身が優男であろうとパンチパーマのおっさんであろうと、着てしまったらみんな一緒。男か女かもわかりません。見えているのは、「着ぐるみ」によって表現された、ファニーなキャラクター。
着ぐるみの場合、外部に対して見た目の情報を制限するばかりでなく、外部から入ってくる情報も著しく制限されます。僅かに開いた覗き穴から見える視界は狭く、両目で見える範囲は普段の数割程度しかありません。おまけに、通気性が悪いものだから呼気が篭もり、酸欠状態になりやすく、正常な判断力を保つのはなかなかに大変です。さらに、外部から見えているのは「ファニーなキャラクター」ですから、観客からはそれに見合ったファニーな演技を期待されます。
大切なのは中身だ、とそれでも言えるかどうか。着ぐるみの場合、内部が外部を決定付けるのではなく、外部が内部を規定しているような気がします。
まあ、着ぐるみを着る機会なんてそうそうあることじゃないですから、別にそれをどうこう述べる意味はあまりありませんね。
ただ、この着ぐるみ体験、実はネットの世界に似てはいないだろうか、とも思うのです。
ネットでは自ら晒さない限り自分の外見については伏せたままやり取りをすることができます。その代わり、入ってくる情報も同じように制限されたものでしかありません。頼りになるのは、言葉。それも強弱高低抑揚のない文字情報が基本です。
ということは、情緒的な関係を作る上で大事な情報がごっそり抜け落ちているということですよね。文章だけでは怒っているのか冗談と受け流しているのかが判断できないような事例は、ネットの世界ではよくあることです。
外部からの過剰反応を期待して演技することだって容易です。顔が見えない、つまり外見上の情報がないから、実際の自分と違う自分を作ることだってできます。
と、ここまで考えてくると、ネット上で吐き出された言葉で相手を判断しようとすることは、着ぐるみの中身の人間性を、着ぐるみの上から判断しようとするものではないか、と私は思います。そんなごくごく部分的な情報だけで人間性を断定されたんじゃ、たまったもんじゃないですよね(笑)。
ネット上ではみんな着ぐるみ的人間です。実際よりも大きく見せたかったり、実際よりもかっこよく見せたかったり。
別にそのことが道徳的にどうこう、というのではなくて、そこに表わされているものだけでその人の人間性まで断定してしまわないように注意しなきゃいけないなあ、と思うわけです。
我も着ぐるみ、彼も着ぐるみ。
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