強固なロジックの無限の反復

2004年6月1日(Tue) 晴

愚鈍なラディカリズム

 いつのまにやら6月です。衣替えでなんだかまぶしい季節ですね。

 画をやめてから5ヶ月が経とうとしていますが、いまだに断ち切れていません。思い出はごっそり捨て去ってしまっても(*)、まだ何か未練があるのかもしれません。時々思い出したように何か描いてみようかという気になるのです。
 しかし、実際に紙に向かうと何も出てこない。イメージが湧かないのです。
 まあ、画をやめた最大の理由はそこだったのですケド。
 もっとも根源的な問題ですよね。何か表現したいイメージがこちらになければ、画は画にならないわけですから。
 愚鈍な私はそこで「一体何のために画を描いているのか」と考えたわけですが、はっきり言って無意味な問いですね。言葉でそれを説明できるぐらいならば、わざわざ画というまわりくどい方法を取らなくても表現できるはずですから。言葉では言い難い「何か」があったから、私は画という手段をとろうとしたはずですが、今はその「何か」はどこかに雲散霧消してしまったようです。
 この根源的な問いに遂に答えを見出せず、とうとう諦めてしまった私は愚鈍としか言いようがありません。まあ、むしろいつまでたっても上達しなかった自分の画をごまかすための言い訳に過ぎないのかもしれませんが。

 ずいぶん前に書いたことですが(*)、私はずっと画を描くという行為を恋愛できないことの代償行為とみなしてきたようです。少なくとも大学時代にはそう考えていたと思います。私がおとなしそうな女の子を好んで描いていた事実(*)と考え合わせても、それはかなりの程度真実でしょう。画を描き続けることで「恋愛できない自分」と向き合うことを避けてきたと言うこともできますね。
 だとしたら、画を描くためのイメージが浮かばなくなってきたということは、もしかすると「恋愛できない自分」に向き合い始めたからなのかもしれません。
 しかし、ではこの「恋愛に不向きな自分」をどうにかしない限りは、画など描くつもりにはならないということになりますね。私の人生にとってはもしかしたらそのほうがいいのかもしれません。

 愚鈍なラディカリズム。
 バカみたいに根源的な問いを発しなければ気が済まない私の性癖は、時々こうして問題をややこしく見せてしまいます。実際にはとてもシンプルな問題なのにね。
 まあ、どうせ私には独創性なんてほとんど期待できないのですから、せいぜいこの愚直なラディカリズムには付き合ってやらないといけませんね。

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